「農村工業」柏崎鉄工界の祖

今回は、大河内正敏氏の話を少々・・・

大河内 正敏 氏大河内正敏は、1878年(明治11年)に、上総(千葉県)大多喜藩主だった子爵・大河内正質の長男として生まれた。

父・正質は、鳥羽伏見の戦いで幕軍総指揮官をつとめている。学習院初等科では、後に大正天皇になる皇太子のご学友をつとめた。

第一高等中学(旧制一高)から帝国大学工科(東大工学部)造兵科に進み、成績優等の「恩賜の銀時計」を受けている。

その後、欧州留学を経て、1911年に東京帝大工学部教授になった。専門は弾道学である。

大河内は、工科の授業に初めて物理の実験を採り入れるなど、理論と実践の融合に力を注いだ。この自由な発想は、総合科学を必要とする兵器の研究に身をおいたこととも関係があったろう。

1927年(昭和2年)、大河内は研究成果を本格的に事業化するために理化学興業(株)を設立し、自ら会長に就いた。

(株)野村銀行(大和銀行・野村證券の前身)などの支援のもと、1930年に柏崎に本社工場が建設され、発明品の企業化・工業化の一大実験場となった。

当初は、アドソールの空調関連応用品、ビタミンA、B1、D、人造酒の製造販売だったが、これらに刺激されて各研究室から”芋づる式”に新発明が生まれていた。

紫外線吸収材ウルトラジン、殺虫剤、コランダム研磨材、アルマイト、ガス微量分析計、精密工作機械、高電気抵抗器『リケノーム』、電解コンデンサー、金属マグネシウムや炭酸マグネシウムの製造など、きわめて広範囲な分野にわたることに驚く。

例によって、大河内は、発明者にどんどん報償金を与え、1932年の理研マグネシウム(株)の設立以後、製造販売会社を次々と設立していったので、理化学興業は持株会社の性格に変わっていった。

ここに、理研産業団(理研コンツェルン)という企業集団が誕生したのである。

当時珍しかった女子の機械工新会社の中でも、1934年設立の理研ピストンリング工業(株)(現・(株)リケン)は、大河内研究室から生まれた。大河内は、エンジンのピストンリングに信頼性のあるものがないことに着目して研究を進めていたが、門下の海老原敬吉が「ピン止め加工」という斬新な製造法を完成させたのである。

おりしも、わが国の自動車工業、航空機産業の勃興期を迎えていたが、理研のピストンリングは航空機用リングで名声を博し、本格的に生産された。

理研産業団でユニークなのは、理化学興業の工場を柏崎においたように、大河内の「農村工業」の考え方に沿って、農村に小規模工場を数多くつくったことだ。

工場作業に慣れない人のために仕事を単純化する工夫もされた。

余談だが、この思想に感激した若き日の田中角栄が、大河内の書生になるべく上京し、後に大河内の知遇を得て事業を広げた逸話は有名である。

今回も、硬い話ですいませんっ・・・

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